70年代の日本UFO研究会について(2/2)

さて、日本UFO研究会、とりわけその機関誌のバックナンバーを読んで影響されて自分は変わってしまい、UFOへの関心が薄れてしまったと告白するエッセイを同機関誌で発表したユーホロジストクラブ代表の平野氏なのですが、そんな日本UFO研究会、機関誌JUFORAとはどんなものだったのでしょうか。

もちろん、機関誌JUFORA は優れたUFO研究誌で、丹羽公三氏や入江重幸氏らによる海外のUFO事件記事(A.P.R.O.など)の紹介や、日本での目撃報告など多く研究記事が掲載されています。しかし一方で、平田留三氏自身によるエッセイがユニークな個性を放ってもいました。

JUFORA No.14 1974年7月号 P.30

例えば、「惑星より愛をこめて」という連載があります。これは宇宙人からの書簡という体裁を取っているらしく、「平田留三 訳」とあり、つまり多分、宇宙人からの書簡を宇宙語から日本語に平田氏が訳したという設定だと思うのですが、明らかに平田氏自身の考えをそのまま書いたものと思われます。この連載は、No.13号から開始しているようなのですが、僕は残念ながらNo.13号は持っていないので、No.14号の連載第2回の冒頭を下に引用してみたいと思います。

私は再び諸君にこの手紙を贈る光栄を喜んでいる。第1信の時よりも、諸君の地球世界はすべて悪化していることを、諸君自身が誰よりもご承知のことでし ょう。日本の為政者と財界人が先生と仰ぐ米国、そこのニクソン大統領のウォーター・ゲート事件は今や全米国をゆさぶっているし、彼の自己保身のためにした指揮権発動は、大統領の政治的地位さえゆさぶりだしたね。永い間つづいたベトナム戦争が、終結に近づくと中東方面で火の手が挙った。石油の欠乏から諸君たちはすでに生活に大きな影響を受けているだろう。諸君よく考え給えよ! 地球の動力源は電気が無くなれば、すぺてが停電することを意味して いる。電気を得るためには巨量の石油を必要とすることは云うまでもない。トイレットペーバーの買だめに狂ったようにかけずり廻ったり、石ケンを積み上げて、これで何年分は大丈夫だ……なんてニンマリしている……(中略)

私はこの精神状態を私流に分析してみたが、何かのご参考となれば幸に思う。
1)日本人の血液中には、太平洋戦争下での極端なる生活物資の欠乏の苦しさが遺伝子として残っている。
2)商社の不法買だめによって、一部の物資が品不足となったり 、価格が上って困ったのは事実であり 、
この警戒心がが非常に大きく強い。
3)土地などの高価なものには手が出ないが、紙やその他の安い物資ならかなり買える。
4)商社に困らされた腹いせと、自分もそれをして優越感にひたりたい……という願望がある。
5)日本の一部マスコミには、時代先取りのつもりで、オーパーに報道する ことがあり、マスコミを信用している国民はこれよりもまたさらに先見の明のつもりで、その先を考えるくせがある。
6)日本人は現在の政府を信頼していないこと。いまま でに期待を裏切られたり、だまされた経験からの 先入感が支配している。
等々である。これらの諸条件は日本人をして、デマや衝動に弱く自主的 ・冷静的な判断力に欠けることが判明した。

日本UFO研究会機関誌JUFORA No.14 1974年7月発行 P.30-31

このテンポで「宇宙人」の書簡は続きます。例えば、ルパング島に30年も潜んでいた元日本兵小野田元少尉の救出を歓迎する日本のムードは異様であるとか、石油危機と便乗値上げ、さらに増税が国民を苦しめ、国民春闘という肩書きで行われるストライキでまた国民が困らされているといったことなどが、あくまで宇宙人目線として語られています。

「惑星より愛をこめて」は連載3回で終わり(第3回掲載No.15号は僕は非所蔵ですので実際は不明)、かわりに「わが人生に悔いあり——これから出発する人に贈る——」と題して、平田氏自身のそれまでの人生を綴って「何かの指針か参考ともなれば……」(日本UFO研究会機関誌JUFORA No.16 1975年6月発行 P.58)という主旨の連載がNo.16号から開始します。幼い頃の田舎の風景や、旅の思い出など、表題では「悔いあり」とおっしゃりつつも情緒ある思い出話が展開されています。

JUFORA No.17 1975年12月号 P.57

これと同じ時期に、「星のくずかご」と題したいわば長い編集後記のようなエッセイも開始されます。こちらのほうが、むしろ前述の「惑星より愛をこめて」に近いスタンスの続編エッセイかもしれません。やはり、政治や社会スキャンダルにもの申したり、あるいは週刊誌のゴシップ記事など読んで社会風俗を憎んだり羨んだり、といった雑多な内容のエッセイとなっています。例えば、No.18・19号の「星のくずかご」は以下のように始まっています。

ロッキード事件は真面目な国民を激怒させ、政治不信を印象づけてしまった。労組はストに続くス トで国民を困らせてしまった。国鉄と私鉄の何でも列車を止めるストは一体誰を目標 にしているのだ ろうか。医師優遇税制で、誰よりも税金を少なく納めている病院などが、脱税では筆頭になっているのは、どういうわけだろうか。フォークの歌手が書いたセックス小説が無罪になって、野坂昭如の 「四畳半何とか……」の小説が有罪になったとは何故だろうか。とにかく奇妙な私たちの日本だと思 いませんか。

日本UFO研究会機関誌JUFORA No.18・19 1976年8月発行 P.81


また、こうもあります。

またある週刊誌での話だが、40オそこそこの男が老婦人専門にセックスをする話が記録としてあった。80オの老婦人とまでアレをしたという。彼の体験談では、老婦人でも若い女性と少しも変らぬ快感がお互いにあり、老人福祉の考え方を変更する必要があると云っている。UFO研究誌にどうかとは思うが、一般のお上品な雑誌に堂々とセックス記事が掲載される世の中であってみれば、「JUFORA」の片隅みにこんな記事が少しぐらいあってを目に角をたてることもなかろう。私もそうだが、会員だってそうだろうと思う。UFOを研究するのと同時に人間であらねばいけない。UFOも大好きだがアノ方も大好きであって悪くはない。先に老婦人の話があったが、特異な話だとか異常セックスだと笑ってしまってはいけない気がする。

日本UFO研究会機関誌JUFORA No.18・19 1976年8月発行 P.84


この後、平田氏は相手の長所を見つけて交際するのが大切という自身の女性観を述べ、そこから、なぜか政府高官の汚職、芸能界のスキャンダル、広告費と芸能人の高額ギャラに言及し、「現在の社会でソドムとゴモラ的要因を構成しているのが、何と云っても政界と芸能界であると指摘すれば過言だろうか?」として、以下のように結んでいます。

甘くやわらかな筆致で進んできたのに、またしても硬い文章の羅列となってしまったので、今ひとたびの思いで話を元に戻したい。とにかく映画・テレビ・週刊誌などに登場する世界は虚構の世界であり、シンキローであるのだろうか?またそれはズームレンズ的な誇張の現実なのだろうか?
この世間知らず野郎!とか、時代遅れもいいとこだ!と失笑されたりすると思うとペンが進まないではないか。そうだったとしたらUFOならぬ勇敢な女性が私の眼前に出現したその時、私は現実として認めようと思っている。

日本UFO研究会機関誌JUFORA No.18・19 1976年8月発行 P.86


ステレオタイプ化しすぎかも知れませんが、僕には、前回紹介したユーホロジストクラブ代表平野氏(当時おそらく30歳前後)と日本UFO研究会の代表平田氏(当時おそらく50歳前後?)が、まさにこの時代の若者と少し戦争経験のある年長者の世代的な気分を代表しているように感じられます。

かたや、内的な体験ではない戦争の歴史を自らへの糾弾として受け止めざるをえず、同時に戦争経験のある上の世代への負い目を感じることで、自己批判的であらねばと思う若い世代と、戦中戦後の抑圧された時期に青春をうばわれて、新しい時代の潮流にたいして憤慨を抱くと同時に、憧憬を感じ、尊重もせねばと感じる年長者世代という、当時の象徴的な2つの世代のギャップを見ることができるような気がします。

ユーホロジストクラブ代表平野氏の前述の決心は、このギャップの、無意識の読み取りから生まれたのかもしれません。

そして、逆にそれはある意味、そのような社会の中でUFOというのは、本当に超現実的で、この2つの世代で共有することが可能な、いわば心の安まる世界観だったということではないでしょうか。70年代のUFOブームにはそんな側面もある気がするのです。結論は、ただそれだけです。

JUFORA No.14 に添付されていた楽譜
(おそらく編曲前のもの)

ところで、前回の冒頭で取り上げた日本UFO研究会発売の「オォ!UFO」レコードはどのくらいヒットしたかはわからないのですが、おそらく、もともとは代表の平田氏自身が阪神録音社というレコード・PR映画制作会社を代表されていることから、見込み度外視で企画を立ち上げられたものと思われます。

No.18・19号の入江重幸氏のエッセイによると、入江氏ご自身でこの曲の編曲をつとめ、また同年(1976年)3月にNHKラジオのUFO特集番組の収録に出演され、UFOの話をされるとともに、レコードの宣伝のためにと、入江氏ご自身でこの歌のギター弾き語りをされたそうです(放送されたかどうかは未確認です)。

本当に、とてもユニークな研究会であったことがうかがえます。

今回は以上です。

70年代の日本UFO研究会について(1/2)

「UFOと宇宙」誌 No.18(1976年6月号)に「オォ!UFO」と題する歌のレコード販売の囲み広告が載っていました。

『UFOと宇宙』No.18 (1976年6月号)表紙とP.43の広告

A面は「オォ!UFOの歌入りとカラオケを収録しました」、B面は「現実再現ドラマ”UFOと斗った男”のジャック付きで「ゴッドマン空軍基地とその日を描いたマンテル事件」を収録しました」と説明があり、17cm LPステレオダブル盤 1,000円(荷造送料共)/500枚限定盤としています。

そして、現金送金先は「日本UFO研究会 レコード係宛」です。

いかにもペンネームっぽい、星乃銀平(作曲)、明星宏(作詞)は両方とも日本UFO研究会会長の平田留三氏であろうことが想像できます。

あらためて日本UFO研究会の機関誌「JUFORA」を読んでみると、とてもユニークな会であると思えてきました。それは、ひとえに会長の平田留三氏の個性によるものなのだと思うのですが、同時に、当時(の社会?)の雰囲気の一端を示すものだという気がしたので、少し紹介したいと思います。

日本UFO研究会機関誌JUFORA No.7,8,14,16,17および18-19合併号
JUFORA No.16 平野氏寄稿文

日本UFO研究会と会長の平田留三氏のことを書く前に、まさにその機関誌No.16(1975年6月発行)に「大切なこと」と題して、ユーホロジストクラブ代表の平野泰敏氏が寄稿している文章について書きたいと思います。

この寄稿の副題は、「——UFOに振り回された15年間の自分の反省として、何か、とても大切なことを忘れていた気がする——」となっていています。

文章の冒頭は、なぜかいきなり、戦時中ニューギニア島で米軍機の爆撃を受け戦死した兵士たちの遺骨収集や戦死者たちの生い立ちを書いた二つの雑誌記事(雑誌『法光』の「いつの日か帰らん」(松原泰道著)という記事と、雑誌『宝石』の「遺骨配達人」(木村勝美著)という記事)からの長い引用(5ページにわたる)で始まっています。そして、平野氏は以下のように書きます。

なぜ私(平野)が、ここに、このような二つの小論文をを再録、ご紹介したのか、その理由は後述しますが、最近の私(特に本年に入ってからの)は、なぜか「UFO問題」に対し、急速に関心が薄くなって参りました。

日本UFO研究会機関誌JUFORA No.16 1975年6月発行 P.52

このように、UFO研究活動から退くこと、そして、その理由として自身の心情をエッセイの中で告白されます。

平野氏は、小学4年の頃にジェラルド・ハードの「地球は狙われている」に出会い、衝撃を受け、時をおいて中学3年のときに少年サンデーのUFO記事をきっかけに強い関心をもち、近代宇宙旅行協会のメンバーとなり、手紙での交流を通して高2の時に同会の機関誌のバックナンバーを全て入手したと書いています。

そして、遂にバックナンバーを全て手にしたときのうれしさ。これはおそらく一生忘れないことでしょう。これは今から10〜11年も以前のこと。世間の人々の大部分が、UFOなんてことに全く関心がなかった頃の出来事なのです。だから僕は(いや、当時の同会の実質的な会員の方々、100名ほどの人々は、)UFOに関心を持ている、そして少しづつでも資料を集めているということに対し、一種の「エリート意識」があったのです。これは昨今の異常ともいえる日本の第2期UFOブーム以来関心を持ち出したヤングの諸君から見たら、滑稽に見えるかも知れません。しかし、僕らは本当にに真面目にそう思っていたのです。

日本UFO研究会機関誌JUFORA No.16 1975年6月発行 P.54 下線は平野氏によるもの

ここで述べられていることは、当時のUFO研究家へのシニカルな批判を含めた、まさに自己批判です。そして、以下のように書いています。

その後、私は平田さんの日本UFO研究会に入会。平田さんの会のメンバーになってから、私はUFOの研究……(中略)……とは、ただ単に、目撃例を収集したり、それを分析することだけではない。もっと大きな意味として理解すべきである。と、考えられるようになりました。これは「JUOFRA」誌のバックナンバーを、読んで、私がそういう風になったわけで、平田さんに対し、本当に感謝したい気持ちです。

日本UFO研究会機関誌JUFORA No.16 1975年6月発行 P.54

ここで、日本UFO研究会について(とりわけ「JUOFRA」誌ののバックナンバーについて)言及されているわけですが、いったい日本UFO研究会機関誌のどういう点に平野氏はインスパイアされたのだろうと思ってしまいます。それは改めて考えるとして、平野氏の文章はさらに以下のように続いています。

今こそ、私は、大反省をし、もっと幅の広い、素直な人間になりたいと思います。人間として考えなければならないこと、世の為、人々の為に奉仕させていただかなければならないことは、本当に沢山、無数と言っていいほどあると思います。……(中略)……実は、本年の3月から、「月刊・合掌」という4頁のパンフレットを出すことになりました。私は、合掌という言葉がとても好きです。合掌の心「手を合わせ、心を合わせ、仕合わせに、おがみ会う私とあなたでよい社会」——これこそ人生の真理だと思います。

日本UFO研究会機関誌JUFORA No.16 1975年6月発行 P.55

このような仏教的な気づきと、当時の物価高騰状況、人々が利己主義的になっていることへの嫌悪、そして、この年が(それが冒頭の引用につながっているのだろうと思いますが)戦後30年という年であることなどから、「私たち日本人は、(そして私も無論そうでありますが)今こそ、大反省をする必要があると思います。」(日本UFO研究会機関誌JUFORA No.16 1975年6月発行 P.56)という強い想いが述べられています。

当時は、仏教的であるかどうかはともかく、ある種の自己批判的な気分が一部の若者の間に強くありました。ある種の、というのがなんであるかはここでは詳しくは書きませんが、それは戦後の直接的な戦争批判的な自己批判とも違う、当時にとっての現代的な気分だったように思います。

そう考えると、平野氏のこのような決意は、ご本人が「これは「JUOFRA」誌のバックナンバーを、読んで、私がそういう風になったわけで…」と書かれているものの、実際には、そういった時代的な気分による要因もあったのではないかと、僕は想像します。

「UFOと宇宙」誌 No.19 1976年8月号

ちなみに、その後のことですが、平野氏は「UFOと宇宙」誌のNo.19 (1976年8月号)に「帰ってきたユーホロジスト」という会員募集の広告を再び出していますので、紆余曲折はあったのだとは思いますが、いわゆる復帰を果たされています。

この広告には、昭和49年(1974年)まで22ヶ月活動してきた同会が、一旦休会状態になったのち、「20数ヶ月にわたる銀河系宇宙旅行から、故郷の星、地球の日本に帰ってきました。」と書かれていて、「帰ってきたウルトラマン」になぞらえているのが微笑ましいですが、実際、本人の中では、この期間にいい意味で宇宙旅行的転換があったのかもしれません。

なお、平野氏は上記の記事の中で「17,8年前の小学4年の頃」にUFOに興味を持ち始めたと書いているので、それが正しいとすれば、この広告を出された時点で30才前後と思われます。

僕は、初期のユーホロジストは購読していた(こちらの記事)ものの、この「帰ってきたユーホロジスト」についてはなにも知りません。平野氏がどのような新展開をしていたのか気になるところではあります。

というわけで、上記のようなエッセイが研究誌に載っているということ自体、日本UFO研究会のユニークな点なわけですが、本題の日本UFO研究会のことについては、後半として次回書きたいと思います。

今回は以上です。

70年代のUFOテレビ番組 私的まとめ

これまでの記事で、70年代のUFOブームを社会現象として、ムーブメントととらえて書いてきたわけですが、実際のところ当時のUFOブームを牽引したのはテレビであったこと、僕自身もそこから強い影響を受けていたことは間違いないと思います。

そのようなテレビ番組を、僕は何の気なしに(特に記録しようと思ったわけでなく)カメラで撮っていたようです。いくつか写真がでてきたので、紹介してみたいと思います。(当時のプリントをそのままスキャンしました。色補正はあえてしていません。)

圧倒的風景

圧倒的風景。写真の解説が目的ではないので、あえて解説はしません。ひとつひとつの画像にまず注目ください。そして、想像していただきたいのは、こういった画像をテレビで始めてみたときの、子どもたちのワクワク感です。もちろん、すぐさまインチキだと冷めた目で見ていた子どもも少なくなかったと思いますが、いずれにしても、このころの画像の持つインパクトは大きかったと思います。

僕が、とりわけ印象深かったのは、アダムスキー型円盤が、ゆらゆらとうごめく8ミリ映像でした。これも撮られた経緯はあえて説明しませんが、やはりなんと言っても動画であり、実際に動いているものが、大きく映し出されていることに圧倒された記憶があります。

映像の中の円盤の形が微妙に歪んでいることについては、番組で「円盤のフォースフィールドによる空間のゆがみではないだろうか」というような説明がされていたように思います。

木曜スペシャルなど、矢追純一氏が手がけたものは、センセーショナルな絵作りに重きをおいていたと感じられます。

矢追ディレクター

ちょっと本題からずれるのですが、僕が中学生の時、矢追ディレクターが京都に取材にくるという噂を人づてに聞き、現場に居合わせることができるという幸運がありました。

京都市のある女性が宇宙人とテレパシーかなにかで交信ができるらしく、また、その近所の子供たち(当時の僕より少し下の年代の子たち)がUFO観測ノートをつけたりしているというほのぼのした事案でした。京都大学UFO超心理研究会の横山氏(『何かが空を飛んでいる』の著者稲生氏)が研究誌「宇宙波動」でこの件をレポートしていたと思います。

左の写真が、テレビで放映された様子ですが、かなりピンボケしてしまいました。

現場に居合わせた僕は、この取材風景を、モノクロ写真でカメラにおさめていました(かなり下手くそですが)。

いかにも70年代っぽいファッションの矢追氏が写っています。左の写真の取材カメラを見ると、ビデオカメラではなくフィルムカメラのように見えます。当時はまだ、テレビ取材はフィルムを使っていたのかも知れません。

教養番組的

一方で、教養番組的なところでUFOが取り上げられることもあったようです。

1976年頃の写真です。この番組について、実は僕は全く記憶がなく、番組名もわからなかったのですが、Twitterでつぶやいたところ、複数人の方から番組名や出演者についてリプライやリツイートで教えていただきました(ありがとうございました——<ツイートへのリンク>)。

当時、日曜の朝9時からフジテレビ系列で放送されていた「第三の目」という番組のようなのですが(後ろに見える黒いタイトル看板の部分からも一致しそうです)、調べたのですが番組の詳細はよくわかりませんでした。

向かって右がカバゴンこと教育評論家の阿部進氏、左がご存じ南山宏氏です。番組内で紹介されているのは、1975年愛媛県でS氏によって宇宙人?が撮影され、謎の金属片が回収されたという事件のようです。

真偽はともかく、わりとキレイな作品感のある事件なので、見つけたいくつかの記事リンクを勝手に貼っておきます。

愛媛県で撮影された宇宙人 【日本のUFO事件簿】
埋立地の宇宙人写真

「UFOと宇宙」誌1977年11月号に取材記事が掲載されているらしいですが、手元にあるのは創刊号から1977年8月号までなので惜しいことに内容は確認できませんでした。

テレビ出演研究者

前述の番組に出演されていた南山宏氏は、作家としての活動が中心で、テレビではめったにお見受けしなかったように思います。一方、中岡俊哉氏も同じように作家の方ではあるのですが、僕はテレビで何度か見て、あの低い響くような声色も相まって強い印象を受けた記憶がありますが、『コックリさんの父 中岡俊哉のオカルト人生』(岡本和明 / 辻堂真理,新潮社 2017年)を読むと、壮絶な人生がバックボーンにあったのだなといまさらながらに感慨を禁じえません。

さて、写真は荒井欣一氏です。背景からおそらく1977年の銀座三愛ビルの「謎の大UFO展」か、渋谷東急本店の「UFO発見30周年 ’77世界大UFOフェスティバル」で報道取材された様子のようですが、もしかすると、何かのビデオの一部だったかもしれません。いずれにしても、荒井氏を出演者としてテレビ番組で見ることは僕はありませんでした。

こちらは、2009年に55歳で逝去された志水一夫氏です。僕は、日本宇宙現象研究会の会誌(編集など)でそのお名前は拝見していて、その後、雑誌記事や「と学会」の著作などでスゴイ人だと知るようになるのですが、そんなことは知るよしもないこの頃に偶然にもテレビ出演されていたところを撮っていました。

番外編

この頃のオカルト番組といえば、UFO以外にはネッシーと超能力でした。

これも1976年頃のテレビ番組だと思います。

フランク・サール氏の写真が撮られたのは1972年だったんですね。今となってはもはやほぼ昔話ですが、当時としては比較的「最近」の事件という感覚だったのかもしれません。隔世の感があります。

超能力番組では必ず流れた、旧ソ連の超能力者ニーナ・クラギーナの念動力の実演映像です。

コレはさずがに僕でも、磁石か何かを手に持っているのではとか疑ったものです。

この写真は、多分、ピーター・フルコス氏だと思うのですが、確信がありません。

そう思うのは1976年に水曜スペシャルで「世紀の超能力者ピーター・フルコス」というのをやっていたらしく、その頃の写真だからですが、しかし、ピーター・フルコス氏といえば、「シャロンテート事件」の捜査にもかかわったと言われる透視で有名な超能力者です。

でも、映像では明らかにスプーン曲げをしています。しかも、多少曲がっているようです。こういうこともする人だったのでしょうか。あるいは、人違いか。

「超」番外編

これは京都大学UFO超心理研究会のメンバーが、当時関西でやっていた「ラブ・アタック」というテレビ番組に出演するよと聞き及び、番組を撮ったものです。

応援メンバーの横断幕には「京大UFO超心理研究会」の文字の下に「ザッツ変態テイメント」と書かれていて、いかにも京大生らしいユーモアーがうかがえます。

なお、「ラブ・アタック」はUFOや超心理とは全く関係のない番組です。

以上です。

70年代のUFOとポストモダン

『UFOとポストモダン』
『UFOとポストモダン』

前にこのブログで、70年代のUFOムーブメントとニューエイジの萌芽(?)について少し書きましたが、そういえば別の側面というか、この種のこの時代の潮流みたいなことについて言えば、やはり「ポストモダン」についても考えなくてはなあと思いました。もちろん、僕がそれを解説できるわけではないので、とりあえず、2006年に出版された『UFOとポストモダン』 (木原善彦著/平凡社新書/2006年) の僕なりのまとめを記します。

その前に、まず「ポストモダン」についてググりました。いっぱい解説がでてきます。
キーワードとして「大きな物語」というのがあります。「大きな物語」に準拠していたのがかつての「モダン」だとすれば、それに対して「大きな物語」への対抗姿勢をとるのが、その次の「ポストモダン」であるということでしょうか(多分スゴく大雑把です)。ジャン=フランソワ・リオタールの『ポストモダンの条件』(1979年)という本で提唱されたらしいです。
リオタール自身は哲学界の潮流(哲学の有効性)についての言及としてこの用語を使ったのかも知れないですが、成否はともかく、それを人間社会や世界情勢に当てはめて上手く説明できるというのがミソなのかなとも思いました。
そういうモダンからポストモダンへの転換点となる時代があって、そして70年代のUFOも、その渦中にあったということです。

『UFOとポストモダン』の著者である木原氏は第2章で以下のように書いています。

議論の見通しをよくするために結論を先に述べておきましょう。 近代のプロジェクトを発展的に継続していくべきか、 それともいっそのこと放棄すべきか、 という問題に対する 解答はいまだに議論の的となっていますが、 UFO神話の1970年代における転換は大衆文化がこの問題に与えた解答の変遷を反映しているというのが私の考えです。 すなわち、 UFO神話においては、 近代のプロジェクトを継続しようとする態度が70年代初頭まで 続ぎ、 以後近代のプロジェクトが放棄されたと考えられるのです。 転換点は明確には定めがたいのですが、 ピープルズが空飛ぶ円盤目撃騒動の最後の年としている 「1973年」をその目安とすることがでぎるでしょう(『UFOとポストモダン』P34)

「近代のプロジェクト」とは、ドイツの社会学者ユルゲン・ハーバーマスの用語で、科学の力、すなわち合理的な形態の社会組織や合理的な思考様式を発展させることによって、人間は古い神話や迷信や権力から解放されるとする楽観的信念に基づく人類のプロジェクトであったのですが、実際にはそれは幸福を呼ぶどころか、世界大戦や原爆へと導いたという反省へと至ったとしているものらしいです(P31)。この「近代のプロジェクト」が「大きな物語」ということでしょうか。

引用で「UFO神話の1970年代における転換は大衆文化がこの問題に与えた解答の変遷を反映している」という部分が、つまり、世界の潮流が「大きな物語の終焉」に向かうに呼応して、1970年代に、大衆文化が主体となってUFO神話の転換を起こしたということだと思います。

ところで、木原氏は「ピープルズが空飛ぶ円盤目撃騒動の最後の年としている 「1973年」をその目安とする」と書いていますが、『人類はなぜUFOと遭遇するのか』(カーティス・ピーブルズ 著、皆神龍太郎訳/文春文庫/2002年)には、例えばどのように書いているか、日本語文庫版を持っていたので見てみました。引用しますと、以下のような文章です。

ここでもうひとつ考えられる可能性は、空飛ぶ円盤神話それ自身が変化したのではないか、ということである。
1970年代から80年代にかけ、円盤事件の強調点は、アブダクションやミューティレーションや墜落事件への移行していった。これまでのUFO報告の大部分を構成していた「空飛ぶ光点」の目撃報告といったものは、もはや重要とは考えられなくなっていた。
大衆文化もまた、この変化を反映していた。
1980年代には、空飛ぶ円盤のテーマが「未知との遭遇」のパターンから、「我々の中にいる異星人」といった主題の円盤映画へと取って代わられていた。『ストレンジ・インベーダーズ』『ヒドゥン』『ゼイリブ』と『エイリアン・ネイション』といった映画が、その流れに含まれている。(『人類はなぜUFOと遭遇するのか』第18章 エイリアン・ネイション /文庫版P554)

さらに、『UFOとポストモダン』のそのあとのページで、ボードリヤールのシミュラークルを引いて説明している部分は、これらを補完する説明となっているとともに、70年代のUFO神話の変化の次の段階を示しているようで面白いです。

まず、木原氏はボードリヤールの、画像及び記号の4段階を『シミュラークルとシミュレーション』から引用して説明しています。4段階とは以下です(部分的に筆者補足)。

第1段階:画像/記号はひとつの奥深い現実の反映
第2段階:画像/記号は奥深い現実を隠し変質させる
第3段階:画像/記号は奥深い現実の不在を隠す
第4段階:画像/記号は断じて、 いかなる現実とも無関係

そして以下のように説明します。

UFO神話はここに挙けられたイメージの四つの局面を順に第三段階までたどっています。すなわち、第一段階では、超越的な性能を有する航空機(そしてそこに乗った未来のユートピア人としての宇宙人)という認識、第二段階では、第一段階で見えていたのは実は偽りの姿だった(ミューティレーンョンやアプダクションに見られる悪意や政府との共同謀議の存在)という認識、次いで第三段階では、空飛ぶ円盤は空飛ぶ円盤の不在を隠すための虚構、見せかけとしての見せかけ、おとりだったという認識です。(『UFOとポストモダン』P82,太字は筆者)

そして、木原氏は続けて次に来る第四段階は、UFO神話が完全にハイパーリアル化する段階だと説明します。

第三段階までは現実と見せかけの二元論だったわけですが、この第四段階ではシミュレーション一元論となり[…略…]現実の何かを指し示すのではない記号、すなわち「シミュラークル」のみということになります。(前掲書P82)

この対応付けが正しいかどうかわからないですが、僕自身が70年代初頭に感じていたUFOそのものへのワクワク感(本当に宇宙人が来ているかも)から、70年代後期に感じていたUFO噂話の「ありよう」へのモヤモヤ感(UFOはともかく、政府もマスコミもけしからん)への変化と、そしてさらにその後の80年代かそれ以降から現在に至って完全にUFOの実体とは関係ない一種の記号遊び(このブログ?)へと変化していくありようと重なるなあと思うのでした。

木原氏は「あとがき」で、「この研究の目的は、何よりもまず移り変わる神話の大きな流れを見つけることでした。」(前掲書P201)と書いています。ポストモダンを例えば脱構築といった積極的アクションの側面でとらえるわけではなく、あくまで時代潮流としてとらえていますし、なぜそうなったかということには答えていないように思います。しかし、そこは多分とても深い議論なのだろうなと思います。

ところで、著者の木原善彦氏は、この10月に開催される京都SFフェスティバルで「実験小説を語る(仮)」というイベントに登壇されるようです。是非参加して話をうかがってみたいものですが、僕はSFファン人というにはおこがましく、参加していいものか悩み中です。

今回は以上です。

90年代のカルチャー誌のUFO特集

70年代のUFOのことを、ある程度まとめて書いたので、また少し違う話を。

80年代は、僕は東京に上京するなどの環境の変化もあって、UFOについてはほとんど関心を持たなくなっていたので、80年代の動向はよくわからないのですが、それでも多分、この時代にはUFOブームはなくなってしまったなあと感じていたと思います。

しかし、90年代になって、その頃少し興味のあったいくつかのカルチャー雑誌(UFOとは本来関係ない雑誌)の数誌が、UFOを特集するのを見て、もう関心は薄れていたものの、またUFOブームのようなものが来ているのだろうか思いました。

その雑誌というのは、以下にあげる3誌です。とりあえず発行年順に紹介します。

「月刊SPY」1991年8月号 — 特集:UFOの研究

199108SPY
1991年8月号月刊SPY

「トワイライトゾーン」誌の編集長務めたことがあり『宇宙人の死体写真集』の著者である中村省三氏が、特集冒頭の文章を書いていて、「さまざまな側面を持つUFO問題は、取り組む価値のあるテーマである」ということを、まず述べています。

内容は、まさに様々な側面から執筆陣を取りそろえていて、SF作家の光瀬龍氏やニューエイジのコンサルタント(?)、大学教授としては大槻教授(プラズマ論)のほか通信や時間論の研究者、人類学者、そして反重力推進の研究家の清家新一氏と気功師?の渡辺聖玄氏へのインタビュー、そしてトリとして並木伸一郎氏と永瀬唯氏による「日本初公開」(同誌による)となる最新UFOニュースを掲載しています。また掲載されているUFO年表のデザイン担当には戸田ツトムの名前があって、豪華?な布陣となっていました。

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「i-D JAPAN」1992年11月号 — 特集:UFO

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1992年11月号i-D JAPAN

コリン・ウィルソン執筆の「UFOはテクノ・エイジの新興宗教である」(大瀧啓裕訳)というエッセイではじまるこの特集は、「UFO問題とは人間の問題である」ということをテーマにしているようです。

執筆陣として荒俣宏、大槻義彦(物理学)、香山リカ(精神科医)、赤坂憲雄(日本文化史)、岩谷宏(メディア/コンピュータ評論)、金子隆一(科学技術評論)といった取りそろえで、山形浩生ほかがUFOブック・ベスト10を、柳下 毅一郎がUFO映画ベスト10を上げているページがあります(敬称略)。錚々たるものです。

この雑誌は位置づけとしてはファッション情報誌のはずですが、この特集の内容は少し薄いものの意外と硬派です。でも、ファッション誌が?一体どういう時代だったのだろうと思ってしまいます。

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「International GEO Magazine」1994年4月号— UFO 精神世界への宇宙旅行

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1994年4月号GEO

この特集は「UFO 精神世界への宇宙旅行」と題されており、ハニア・ルチャクというジャーナリストのルポルタージュとUFO解説小コラムで構成されています。(おそらくドイツ版GEOに載ったものの翻訳記事)

ルポには1992年1月にエジプトのカイロで開かれた「世界UFO研究家会議」を舞台に、ピラミッドの間近でUFOを見る集いの様子やUFOへの信仰心や宇宙人との交信体験などについて、そして参加者たちの人間模様が書かれています。

特集の最後には、翻訳監修者である山中康裕氏(京都大学教授)のユング心理学におけるUFOについての解説コラムが添えられる、という構成です。

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僕の前の記事で、70年代の終わりくらいに、アダムスキーの支持基盤であるカルチャーが求道的なオカルティズムからニューエイジ的なものに置き換わって行く過程があったかもしれないということを書きましたが、80年代には、ニューエイジというか、むしろ日本的には「精神世界」と呼ぶべきかもしれませんが、精神世界カルチャーとUFOムーブメントの結びつきが強くなってきて、UFOは一般に受け入れられるレベルのサブカルチャーからは乖離していったのではないかなあと思います。僕の印象としては80年代はそんな感じです。

しかし、90年代になると、少し「オトナな議論」としてUFOが俎上に登るようになってきたように見えます。オトナな議論と言うと少し語弊がありますが、つまりは、UFO体験そのものではなく、UFOをムーブメントとして外側から語る(見る)ようなことです。上にあげたカルチャー雑誌の特集記事のように、UFOを各文化背景での位置づけやこころの問題として見たり、精神世界側については、それを特別なコミュニティーとしてレポートしたりといったカタチです。あるいは、TVタックルの超常特番のように「UFOについて議論する人たち」にフォーカスするというのも構造としては同じものだったのかも知れません。

紹介した雑誌は、僕がたまたま見つけていたものを取り上げただけですし、実際のところ90年代にUFOブームが再燃していたのかどうかは、よくわからないのですが、どちらにしてもそれは70年代のそれとは、当然ながらそうなのでしょうが、上のような流れから見ても別物だったのだろうなと思った次第です。

今回は以上です。

70年代のアダムスキー動向周辺

前回、70年代日本UFO研究史のメインストリームでないムーブメントについて(ホンの一端ですが)書いたのですが、アダムスキー問題についても、僕が当時集めた資料をもとに周辺的なことを少し書いておこうと思います。

・日本GAP

日本GAPは、久保田八郎氏が、あの『コズモ — UFOと宇宙』誌を創刊(1973年)させるよりも前の1961年に設立した日本のアダムスキー支持団体です。団体そのものについて詳しくは、ネット上にも情報はあるので、割愛させていただきます。

前々回の記事で、1977年はアーノルド事件から30周年ということもあってUFO展が多く行われた年だったと書いたのですが、同じ1977年には、日本GAPの総会も大きな規模で行われたことが同会のニューズレターからうかがえます。

GAPニューズレター
日本GAP「GAPニューズレター」、1977年の総会をレポートした63号
1977年の総会のレポート(GAPニューズレター63号)
1977年の総会のレポート—講演会での入場行列と満員のホールの写真(GAPニューズレター63号)

記事によると570名収容のヤクルト・ホールの大ホールが満員になったとあります。570名というのは実際はそれほど大きな規模とは言えないかもしれないですが、それでも「アダムスキー哲学」への当時の日本における関心の強さを感じる数字ではあります。

この時期、日本GAPは東京の本部以外に、大阪、高知、新潟、熊本、福知山、岐阜、仙台、山形に支部があり、アダムスキー著の『宇宙哲学』『生命の科学』『テレパシー』をテキストして毎月月例勉強会を行っているという同誌の報告記事からも、そのことがうかがえます。

・UFO教育グループ

たま出版の社長であり、時々テレビ番組などで某大学教授と激論をかわしている(いた?)韮沢潤一郎氏ですが、1970年代にはアダムスキー支持団体である「UFO教育グループ」の主幹を務めています。

グループの機関誌で韮沢氏が編集する『UFO教室』3号(1978年1月)、4号(1978年4月)と1978年5月の講演会のチラシ(写真)を、僕は当時(もはやどういう経路だったか不明ですが)入手していました。講演会のチラシは「楽しい人生を送りたい方。UFO、生まれ変わり人間を愛する事、生きる目的、宇宙、自己の改善、テレパシー等に関心のある人来たれ!」とうったえています。

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UFO教育グループ機関誌と1978年5月講演チラシ

この講演で来日したシャーロット・ブロッブ女史が、アメリカの「UFO教育センター」の指導者で、同センターはアダムスキー自身によって活動が始められたらしく(同機関誌のポール・ルーツ記者翻訳記事による)、この1978年時点でセンターには日本人として古山晴久氏がかかわっておられ、同誌によると、同センターは日本の「UFO教育グループ」の「母体」であるとされています。そして、センターの活動は、諸惑星からの来訪者たちと交流を持ちながら、世界で政界、学会、一般に対して活動(啓蒙活動?)を行っていると説明しています。

残念ながら、どの程度の規模で活動されていたのか、日本GAPとはどのような関係なのかが、手持ちのわずかな資料からはわかりませんでした。

・C.R.C (N.S.R.C JAPAN)

C.R.C (Cosmo Research Consortium) は『聖書とUFO』『キリスト宇宙人説』(ともに1974年大陸書房)などの著者である山本佳人氏が1971年から(当時東京芸大22才)かかわった団体です。山本佳人氏の活動としてはSPNWというのがあったようですが、それは80年代以降のことで、70年代においてはC.R.Cになります。

C.R.Cは、イギリスのジョン・サール氏が創始した有人宇宙飛行計画事業を展開し反重力推進を研究する組織、N.S.R.C(National Space Research Consotium)の日本支部として1970年10月に発足したグループでN.S.R.C(JAPAN)という名称でした。しかし日本では、その機関誌『宇宙通信』を当初から「宇宙哲学と科学の研究誌」とうたっており、例えば、前述のアダムスキー支持団体のシャーロット・ブロッブ氏の文章なども掲載していました。

ちなみに、『宇宙の四次元世界』(1971年)『空飛ぶ円盤製作法』(1975年)『実験円盤浮上せり』(1978年)などの大陸書房刊の著書のある清家新一氏は英国N.S.R.Cのメンバーで、この『宇宙通信』にも論文を掲載しています。

1972年4月の『宇宙通信』で「NSRC日本支部改称—CRC(宇宙研究協会)」の報告があり4月1日にC.R.Cに改称しています。そしてこの年、同誌はアダムスキー特集として4号に渡り山本佳人氏の論文を中心に極めて熱心なアダムスキー関連の翻訳記事やエッセイを掲載しています。韮沢氏や古山氏の寄稿文もありました。

CRC機関誌No.24〜26
アダムスキーを特集したC.R.C機関誌『宇宙通信』No.24〜26 (1972年)
「アダムスキの思想史的位置概略」
山本佳人氏の論文「G・アダムスキの思想史的位置概略」(『宇宙通信』No.24)

また、C.R.Cには大阪ブランチがあり、京都大学UFO超心理研究会の創設者の浅井総一氏が、C.R.C大阪ブランチ独自の機関誌『CRCタイムス』を刊行しています。しかし、前の記事(「ブーム直前:1973年」)で引用した『地球ロマン 復刊2号』の対談で中園氏が指摘しているところでは、それは一種の「独立王国」であったようですが、やはりアダムスキーを支持している点では同じでした。(逆に浅井氏はチベット密教系つまり神智学系の「ヒマラヤ聖者研究会」としても活動していた点では、後述しますがむしろ(別の意味で)正統なアダムスキー派であったとも言えるかもしれないですが、それは別の話で)

さて、1972年1月の『宇宙通信』には、新年の挨拶のような形で山本佳人氏著名の「読者各位」という別紙添付がありました。これによると、この時点での会員数は「350余名」とあります。また、日本GAPとの関係についても書かれていました。それによると「本会は1970年秋[略]、より総合的な史観とプログラム[略]を達成しようというメンバーが協力し合って、日本GAPから独立し独自の工程を歩み始めたわけです。[略]同年10月5日本紙編集者と日本GAP代表の話し合いが行われ、[略]連携協調していくことが確約されました。」とあります。

テレビのバラエティー番組などでも、例えば「これは、いわゆるアダムスキー型UFOですね」などと半笑いのドヤ顔でちょっとUFOには詳しい系のタレントが言うほど、ポップな存在になった「アダムスキー」ですが、上記のような別種の熱狂が当時はあったということが少し伝わればと思います。(ネット検索してみると、現在でも『生命の科学』をテキストとして学習会を行う団体や、久保田八郎氏の関係者の方の活動などはあるようです。)

アダムスキーの教義とはどういうもので、上記のようないろいろな機関誌に、その教義についての何が書かれているかは、ここには書きませんが(興味のある方もほとんどいないでしょう)、思想の位置づけとしては、大田俊寛氏の『現代オカルトの起源』(ちくま新書 2016年)に書かれているように、基本的には神智学の直系思想(教義)であったのだと思います。

大田氏はこの本で、アダムスキーが宇宙人とコンタクトする前に結成していた「王立チベット教団」の『王立チベット教団による問答集』の内容は、この本の前段で解説しているブラバツキーをはじめとする19世紀末のオカルティズムである神智学の教義内容のまさに簡略版であることと、宇宙人とのコンタクト後もその構造は変わっていないと指摘しています。このことは『オカルトの帝国』(青弓社2006年)の吉永進一氏(ところでこの吉永氏もまた稲生(横山)氏同様、京大UFO超心理研究会出身だと思うのですがどうなのでしょう?不確かです)の論文などでも以前から明らかにされていることですが、大田氏の著書では、19世紀末のブラバツキーの教義からの歴史的経緯を「霊性進化論という思想体系がある」という観点で体系的に説明している点で興味深いです。

一方、『ぼくらの昭和オカルト大百科』(大空出版2012年)では著者の初見健一氏は、アダムスキーについて言及している項で、このような潮流について「UFOが心の”内部”の問題として扱われている」と言い表し、「この”感じ”をもつ”UFO”観は、[略]日本では80年代以降[略]別種の大きな流れとなった、いわゆる”ニューエージ”系の潮流だ」と指摘していて、「ニューエージ」に属するとしています。それもそのとおりだと思うのですが、つまりは、「アダムスキー哲学」は大田氏の著書の指摘のように、神智学的オカルティズムに基づく「求道的」なムーブメントとして発展し広がったのですが、やがてその潮流は、このあとの80年代にかけてニューエイジ的なムーブメントにカタチを変えたり、置き換わったりしていったのではないかと思います。逆にいうとその転換点が日本の場合、70年代のどこかにあったのかも知れません。

今回は以上です。

70年代日本UFO研究史-メインストリームではないものたち

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『日本UFO研究史』

CBA出身の天宮清氏が先日上梓された『日本UFO研究史』の「第3部 国内のUFO研究史」には、その50年代以降の黎明期における日本空飛ぶ円盤研究会、近代宇宙旅行協会、CBAなど、そして70年代以降の氏が「第二世代」と呼ぶ日本宇宙現象研究会およびその周辺に至る、いわばメインストリームにおける登場人物が整理されていてとても興味深いです。

ところで、そういったメインストリームとは別に、70年代のブーム以降には、各地方でも小さな団体や活動家がいたことも忘れてはならないかもしれません(いや忘れて欲しいと思う人もかなりいるかもしれませんが)。僕が当時手に入れたわずかな資料から、少し紹介したいと思います。

・ユーホロジストクラブ

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静岡県の平野泰敏氏が代表をする会で、1974年3月の「ユーホロジスト」No.15には、「本紙は、昨年1月、全日本UFO研究者連盟会議(事務局長平野泰敏)の機関誌として創刊されました」とあるので、創設年は1973年1月と思われます。

そして「会議の目的は、各UFO研究団体、研究グループ、会に属さないUFO研究者の横のつながりを、より緊密化する為に結成されたものです」とあります。

「コズモ UFOと宇宙」誌の第4号に会員を募る広告を出していて、僕はそれで知ったのだと思います。それによると「ユーホロジスト」誌はB5版6ページの月刊誌で「UFO問題ミニ情報誌」としており、内容紹介では「国内UFO研究界近況紹介・読者の声・旧資料の再録紹介・その他」とあります。

実際、内容を見てみると、「誌友の声」では、平野威馬雄氏をはじめ、この頃はFSFS(空飛ぶ円盤研究会)代表だった北島弘氏や、日本大学UFO研究会代表大槻哲史氏、その他市井の研究者と思われる方からの手紙が紹介されています。「国内UFO研究界ニュース」では新グループの発足報告、各グループの機関誌の発行報告、刊行物報告、講演報告などがあり、「幻の名著・再録紹介」ではジェラルド・ハード著の「地球は狙われている」からの抜粋が掲載されています。

・UFO研究・同好会

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「UFO研究・同好会」という名のグループです。三重県の番園武氏が代表する会で、「OBSERVER」という機関誌を発行していました。1977年春号の表紙裏には「当会の性格」として以下のように記されています。

「(前略)UFO研究は紀伊山地を取り囲む三重、和歌山、奈良それに滋賀県の四県を重点的に取り組むものであり、四県の遺物、神社、仏閣等を通説を交え、観念的見解で追ってみるものである。(後略)」

ここに書かれているとおり、この4県のみに絞っているところがユニークです。内容的には観測報告が詳細に渡り、誤認しやすい航空機の構造を図解で解説したり、伊勢の天女伝説を宇宙人とする仮説や空海が高野山を選んだのには理由があるという仮説(鉱物や断層—「UFOと断層」)が展開されています。報告や論がいずれも徹底されていて好感が持てます。

・国際UFO研究会

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こちらも三重県です。津市の古市彰文氏が代表をする会で、「国際UFO研究会だより」という冊子を発行していました。1976年12月の復刊1号の表紙裏には会長古市氏の「復刊1号にさいして」の以下の文章があります。

「近年、UFOの動きは活発化を増し、国内においてもショッキングな事件が続発、いよいよその正体を我々の前に現しつつあり、これからの動きが注目される現在です。(中略)全国のUFO研究者が集結し、新しい展開がなされるよう望みます」

内容としては、UFO学入門、個人のUFO目撃報告および意見投稿、イベント報告、シカゴ国際UFO会議のまとめ、各地の新聞のUFO目撃記事の抜き書きやコピーなどです。

・日本大学UFO研究会

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これはむしろメインストリーム寄りかも知れませんが……

後に日本宇宙現象研究会の主要メンバーとなる大槻哲史氏が会長の日本大学UFO研究会の会誌は「UFO RESEARCH」でした。

1975年4月発行の同誌No.4では会長の大槻氏が、その年の2月に発生した甲府事件を自身で調査して報告しています。

また、日本大学には日本大学超心理UFO研究会というのもあって、どうも同じ会らしいのですが、その総統?は高橋洋一氏で、同誌のNo.5 には「新UFO論争—UFOLOGY-過渡期の科学」という論文を書いていて、UFO存在の論証の困難さと論証方法の考察という極めて根本的な論を展開しています。

また、各号で観測されたUFOの分析報告が池田隆雄名でされているのですが、この池田氏とはあの『日本のUFO』の池田隆雄氏なのか?だとすれば寄稿文?……僕の知るところではないのですが、そうだとすればすごいです。

いずれにしても、甲府事件のタイムリーな対応といい、まさに本格的な研究誌だったようです。ある意味、前の記事で紹介した京都大学UFO超心理研究会の機関誌「宇宙波動」とは対極的な存在(両者ともにいい意味で)だったのかもしれません。ただし、多分大槻氏の就職などがあったためかもしれないですが、上記No.5号は1976年から1978年11月にかけて少しずつ(多分断片的に追加されながら?)印刷発行されたものだそうです。

日本UFO研究史という意味で、活動の大きな潮流があったのと同時に、当然ながら上記のような活動もあったということの一端が少しでも伝わればと思いました。

70年代のUFO展 私的まとめ

70年代のUFOブーム期には、大規模なUFO展から店舗やイベント会場の一角での小さなUFO写真展まで、各地で数多く行われていたようです。

僕が見に行った範囲で紹介したいと思います。

1974年9月:UFO展-大阪日産ギャラリー

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当時、ラジオ大阪で「UFO—こちらOBC」というUFOに関する深夜番組やっていて、中学生だった僕は、多分それでこのイベントのことを知ったのだと思います。実際には、このイベントの開催年も覚えていなかったのですが、最近いろいろ手持ちの資料を調べていて、日本宇宙現象研究会発行の「UFOマンスリー」昭和49年10月発行No.6(志水一夫氏が編集人だった)で、大阪の日産ギャラリーでのUFO展は同年9月1日から30日まで行われたという記事を見つけました。上記のラジオ番組名も、同誌に同会の林一男氏が出演したという記事を見つけて思い出したくらいです。京都に住んでいた僕は阪急電車に乗って毎週末通ったのだと思います。写真は、当時僕が撮ったものです。写真には日本宇宙現象研究会の並木氏や林氏の当時の様子が映っています。この写真の講演は第3回目で、介良事件の報告と質疑応答があったようです。別の日には近代宇宙旅行協会高梨氏も登壇されていたような気がしますが、残念ながら上記以外の写真など記録を残しておらず不確かです。写真はモノクロです。多分中学生の僕はカラーフィルムを常備してはいなかったのだと思います。(なお、以下写真は全て、あえて小さく縮小して掲載しています)

1976年9月:UFOフェスティバル’76-霞が関ビル

このUFO展を見るためだけに初めて1人で日帰りですが東京に行きました。下の写真は当時焼いた写真をそのままスキャンして掲載していますので、色あせていますが、その方が時代感がでるのでそのまま掲載させていただいています(実際のところはネガを全て失ってしまったのです)。

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講演者は写真の上から高坂剋魅氏、日本UFO研究会 平田留三氏、近代宇宙旅行協会 高梨純一氏、空飛ぶ円盤研究会 荒井欣一氏。イオンクラフトの実演もありました。

1976年11月:京都大学11月祭の京大UFO超心理研究会

ちょっと変則ですが、地元の京都大学11月祭での京大UFO超心理研究会の様子も紹介します。なお、僕は京都に住んでいただけで京大とは関係ありません。

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この年のイベントではO.K.君による「念書」(数学の方程式が予めカードに書かれていて、少年が放り投げると答えが自動的に書き込まれるという超能力。方程式が使われたのは少年には解けないはずだから?でも確かにこれで何でも答えが出れば夢のよう)実演実験と政木和三氏の講演「超常現象の科学的測定」が行われました。(さらっと書いてますがまさにトンデモ)

1977年7月:レザリアムUFO展-京都レザリアムセンター

当時、京都に仮設の比較的規模の大きい施設が作られました。レザリアムといって、暗闇のドームの中でレーザー光線でサウンドにシンクロするグラフィックを上映する当時としては斬新な施設でした。そのレザリアムで1977年の7月から8月にかけてUFO展が開催されました。

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8月7日に生体エネルギー研究所の井村宏次氏、14日に宇宙現象研究会大阪支部長林一男氏、21日に近代宇宙旅行協会高梨純一氏が講演を行っています。

また、ここで発行され無料で配布されている「マインド・トリップ」誌の3号には、京都の貴船神社や鞍馬寺の伝説を宇宙人とする説や、当時京都大学UFO超心理研究会のメンバーで、宇宙現象研究会の京都支部長になった楢崎氏の報告なんかが、独特のデザインとイラストとともに掲載され、今思うと、京都といういち地方のいち施設のコーナーイベントとしてはわりと本格的なものになっていました。

1977年8月:UFO発見30周年 ’77UFOフェスティバル-東急百貨店本店

この年、東京では、銀座の三愛ビルで4月から4ヶ月にわたって「謎の大UFO展」が大々的に開催されていたのですが、それには行けず、僕が東京遠征できたのは夏休み中に行われた渋谷東急本店での「UFO発見30周年 ’77世界大UFOフェスティバル」のほうです。

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写真のUFOティーチインは斉藤守宏氏と矢追純一氏です。この展示のタイトルに書かれているように、1977年はケネス・アーノルド事件から30周年です。そのためか1977年は本当に多くのUFO展が各地で開催されていたようです。

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この前後の年にどれくらいのUFO展が開催されたのか調べていないのですが、もしかすると1977年はUFO展という側面でも特異な年だったのかもしれません。空飛ぶ円盤研究会発行の『1977年UFO年鑑』に載っている1977年年表で、展示会の項目だけを抜き出して見てみると3月18日の宮崎市壽屋百貨店の「世界大UFO展」を皮切りに、鹿児島市、福山市、池田市、枚方市、京都市、名古屋市、平塚市、東京、水戸市、春日部市、富山市、札幌市、帯広市、釧路市などで写真展示程度のものも含め計30件ほど(うち10件が東京)で開催されています。開催場所としてはデパートが多く、銀行、体育館、高校や大学の文化祭があります。

1978年7月:宇宙博

ところで、翌年1978年には、UFOとは直接関係ないのですが、大規模展覧会がありました。そうです「宇宙博」です。前年の東京遠征に味をしめた僕はこれにも行きました。

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サターンV型ロケットの実物展示は圧巻で、こんな巨大なモノをよくぞ持ってきたものだといまさらながらに思います。それだけでなく、その他のロケットも林立展示しているのです。こんな風景はもう二度と見ることはないような気がします。70年代後半は、宇宙や科学への憧憬に満ちた時代でした。逆に80年代以降の反科学潮流はこういった流れの反動だったのかも知れません。

(おまけ) 1977年9月:某高校文化祭UFO超心理展

1977年の某高校の文化祭でのUFO展を紹介します。

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展示のUFO写真パネルは日本空飛ぶ円盤研究会から貸し出してもらっていました。イオンクラフトは工学志望のK君がアルミホイルとバルサ材で制作、テレビ受像機のブラウン管線から高圧電流を取り出して飛行成功しました。バルサ棒の尻尾をつけて水平に安定させる方法は東急のUFOフェスティバルで見たものをまねていていい感じに垂直に浮遊しました。フラットウッズ・モンスターは実物大で手書きです。写真でいっしょに写っているのがK君です。

この記事を書いているのは2019年、全ては40年以上昔の話です。

今回は以上です。

UFO事件の「さみしさ」

IMG_7816同人誌『UFO手帖 2.0』等のSpファイル友の会(→リンク)代表、秋月氏著の『さみしいUFO。』(2018年8月Spファイル友の会発行/全28ページの小冊子)を購入させていただきました。とてもいいです。

前にこのブログで、稲生氏の『定本 何かが空を飛んでいる』の以下の引用の言葉への共感を書いたけれど、それは「さみしい」ということでもあるのだなあと納得しました(?笑)。

円盤は悲しい。
円盤は恥ずかしい。
(『定本 何かが空を飛んでいる』P14)

 

小冊子『さみしいUFO。』においては、「さみしさ」の理由にはいくつかのパターンがあり、それを各章で具体的な事件の引用をもとに、1ページほどの短い文章で、その「さみしさ」がつまびらかにされていきます。

例えば、最初の章「ひとりUFO。」では、大抵のUFOや(主に)宇宙人との遭遇はひとりで行われ、そのため結局証拠のない体験談となり、僕たちの間で話が「浮遊」し、その「不全感がさみしい」のであるとしているのだけれど、そのようなベタな説明ではない、なんというか文章自体が詩情に昇華されていてすごいのだ。

それはある種の「感覚」で、多分、僕自身もUFO事件に感覚として共通のものを見ているので共感するのだと思います。

IMG_7818似た感覚のある本で『PHENOMENA』という本もとてもいいです。

『PHENOMENA』を最初に知ったのはウェッブ版WIRED誌(→この記事)でした。

そして、この記事を読んですぐに注文してしまいました。フランスから航空便で届いたそれはA4大のクロス装丁ハードカバー本で、およそUFO本らしくはありません。

内容としては、かつておきたUFO事件の当事者や関係者たちを再取材したインタビューをもとに、淡々とした記事が書かれているのだが、添えられている写真があまりに芸術的すぎて、これらの出来事がUFO事件というよりも人間の何か深い性(サガ)のようなものから生じているのではないかと感じさせられてしまう。そのサガとはすなわち「さみしさ」ということで(都合良くまとめすぎ?)。

実際、ページの写真をくるごとに「さみしさ」がこみ上げてきます。

今回は以上です。

『美しい星』、CBA、平野威馬雄

三島由紀夫の『美しい星』をもとにした映画がまもなく公開されるそうですね。重一郎は原作とは違いお天気キャスターという設定で、リリーフランキーが演じるとか。一体どういうふうになるんでしょう。期待と不安がない交ぜになるとはこのことです。

『美しい星』は、1960年代に活発な活動をしていたCBA(宇宙友好協会)という実在の空飛ぶ円盤研究団体のコンタクティ松村氏をモデルにしている(らしい)というのはよく知られているところです。

CBAについてはとにかく物議を醸す話が多いですが、そのスキャンダラスなすっぱ抜きを70年代にかけてしたのが平野威馬雄(本業はフランス文学研究)でしょうか。僕は氏の著書『円盤についてのマジメな話』(1973年刊)を買って読んだことがありました。その本はもう無くしてしまったのですが、なんとつい先日、古本市で見つけました(写真)。

IMG_8652 2ちなみに、この表紙のイラストは和田誠ですね。和田誠は平野威馬雄の娘の平野レミ(現在タレント、料理愛好家?)の旦那さんで、二人は1972年に結婚しているそうですから、それはこの本の発行年の前年ということで、なるほどと。関係ないですが、そういえばつい最近、その和田家のミュージシャンの息子とタレントの上野樹里さんが結婚とかいう話題があったばかりです。さらにちなみにで言えば、平野レミさんも父親の円盤取材に同行したりしています。平野威馬雄著『空飛ぶ円盤のすべて』(1969年刊)の「長い前書き」の中で、愛知県のコンタクティーの取材に行くくだりにこんなのがあります。

そこでぼくは五月二十八日夜の汽車で名古屋に向かった。携帯品はソニーの録音機と、円盤や宇宙人のミステリーに深い関心をもっている娘のレミ(文化学院英文科卒業、目下シャンソンを唄っている楽しく底抜けに明るい娘)であった。(『空飛ぶ円盤のすべて』P11/1969年刊)

閑話休題。

IMG_8618_2同じ古本市でこれも見つけました(写真)。平野威馬雄著『それでも円盤は飛ぶ!』(1960年刊)です。この本には平野氏自身が体験したCBAの集会での出来事やその周囲の人たちへの取材の話が臨場感を持って書かれていて(面白いと思う人には)大変面白い本です。

CBAという団体は、実体はそうでもないのかもしれないのですが、なんだか謎に満ちています。例えば、前回の記事で書いた稲生氏の『何かが空を飛んでいる』にはこんなふうに書いてあります。

……「宇宙友好協会(CBA)」という世界に誇るべき(?)カルトも形成された。CBAはその行動性、熱狂性で群を抜いており、地軸がもうすぐ傾いて世界は破滅、異星人の宇宙船に乗っけてもらって助かるんだという「教義」のゆえに、悲喜劇を展開することとなった。なお、三島由紀夫の快作『美しい星』は、CBAのことを知らないと理解できない部分が多いので要注意。そうそう、CBAといえば、僕には個人的な思い出がある。僕が70年代に円盤ムーブメントに足を突っ込んでいたことは話したよね。で、その頃、CBAなんて幻の団体というか、とっくの昔につぶれていると最初思ってたんだけれど、ところがどっこい、円盤の裏の世界で依然として精力的な活動を続けているのを目撃して、驚いてしまった。このへん、ほんまにやばいような気もするので、詳しく語るのはやめにしよう。(『何かが空を飛んでいる』p57)

僕が多分その稲生氏(横山氏)の出身先(?)と推測している京都大学UFO超心理研究会の『宇宙波動』No.19(1979年刊)「昭和53年度卒業生インタビュー」でその時の卒業生の深川氏が述べている研究会創設の話があるのですが、そこにもCBAの名前が出てきます(引用の[]括弧書きは僕の注記)。

深川:浅井さん[京大UFO超心理研究会創設者]の下宿が変わっていて、そこの大家さんがUFO研究家で、CBAからアダムスキー派になった人で、そこには森田健[ママ。守田の間違い](青パッチ)沖(オーラ見者)児玉氏ら、のちのUFOゴロ、オカルトゴロの卵たちがゴロゴロしておりました。そのメンバーで11月祭[京大の文化祭]でUFO展をやりました。(『宇宙波動』No.19 p35/1979年10月刊)

三島由紀夫が荒井欣一氏主宰のJFSA(日本空飛ぶ円盤研究会)の会員でUFO観測会にも顔を出していたことなどはよく知られるところですが、案外、そういった活動を通じて三島氏は、『美しい星』の重一郎が社会を冷ややかに観察しつつ、かつ一方である種の「愛情」を抱いていたのと同じように、日本の「円盤業界」を見つめていたのかも知れません。

平野氏の本についてはまたそのうち紹介したいと思います。
とりあえず今回はここまで。