はじめに

以前から、僕が1970年代に興味を持ったUFOと、そのころの体験や収集した資料について整理したいと思っていた。
このブログを立ち上げた理由はそれなのだが、きっかけになったのは最近刊行された『新・UFO入門』(唐沢俊一著、幻冬舎新書)という本である。
この中で唐沢氏は「UFOの真実は、UFOにはない。そのUFOを目撃し、あるいはアブダクションやインプラント(機械類の埋め込み)をされた、人々の中にあるのである」(同P179)と述べている。
僕はUFOをはっきりと目撃したことはない。しかし、妙にUFOに引きつけられたのだった。当時流行ったテレビのUFO特集を欠かさず見たのはもちろん、UFO関連の書籍や雑誌を読み、講演会や研究会の集まりにも参加した。
でも、果たして僕はUFOの真実を求めていたのだろうか?と今になると疑問に思う。唐沢氏が「UFOの真実はUFOにはない」と言うのと同様に、UFOに引きつけれれる理由もまたUFOそのものの真実を求めているからではなかったように思う。そう、やはりUFOは何かの象徴であったにちがいないのだ。
その象徴の中身を僕なりに分析してみると、それは以下の2つであったのはないかと思う。
1)私を見つめる存在としてのUFO
孤独な人間にとってUFOは一種の天使のような存在であると僕は思う。特に他人に言えないような孤独や悲しみを抱えた人間にとっては、それは癒しの存在なのだ。どのようなところが天使的と言えるかというと、UFOが僕たち人類を「見つめている」存在だという点でだ。それは個人においてもそうなのだ。想像してみて欲しい。空中に輝く光が浮遊しているのをあなたは目撃したとする。いや、光でなくて無骨な金属製の円盤型物体でもよいだろう。それをあなたは「見る」。しかし、同時にあなたはその物体から「見られている」と感じることだろう。その物体には目玉も、こちらをのぞき込むような潜望鏡もないとしてもだ。そこにもの言わず浮遊しているというだけで、まるでそれはこちらを見つめているようではないか!少なくとも私の無意識はそのように感じていた。「私を見つめる存在」として、その象徴的な存在としてUFOはある。昔なら、それを神とはいわないまでも天使(日本なら観音かな?)と呼んだに違いない。それは、もの言わず密かに私を見つめる存在であり、孤独な人間にとって一種の癒しの存在なのである。
2)理解されない自己の投影としてのUFO
僕のように現実逃避する人間によくある傾向なのかもしれないが、僕には自分は誤解されていると思いたがるようなところがあった。誰も自分を理解してくれないという思いは、そのままUFOの存在が世間から誤解され疑いの目で見られることへの共感として現れたように思う。UFOを否定する人たちは、隠れた「真実」を知らないで短絡的に否定しているという考えは、つまりは、「真実の自分」を理解されずに他人から見下されている自分の存在という考えと無意識に重ね合わされている。でも、実際にはそれは、現実には存在しない「本当は高尚な自分」が存在するかのように主張したい願望を反映している。UFOが実在しないのと同様に、そのような「自分」も妄想であり存在しないのが現実なのだ。それはつまりは劣等感の裏返しであり願望にすぎなかった。もっと言えば、無意識的には両方とも存在しないことに自分は本当は気づいていたのかもしれない。それゆえ、その弁護はいつも曖昧であり、時として大きく破綻するのである。
まあ、以上はUFOに興味をもつひとりとしての自己分析みたいなものだが、このブログでは特にそういう心理学上のことを追求していくものではない。しかし、つまりは僕は唐沢氏の提言の通りにUFOについて考えようとしているのである。そしてそのために最初に書いたように、あの時代におけるUFOにまつわる雑多なことを僕なりにまとめていこうとしているのである。
地球ロマン例えば、唐沢氏が『新・UFO入門』でふれている雑誌『地球ロマン』(1976年10月1日発行 復刊2号—第1巻第4号— 総特集=天空人嗜好 )は僕も持っている愛蔵書のひとつである。この中のCBAに関する記事は唐沢氏も書いているように大変興味深い。しかし、一方で僕がもっとも興味深く読んだのは「日本円盤運動の光と影」と題する座談会の記事だ。座談の形式を取っているせいか、当時の運動の状況や雰囲気が臨場感のある形で語られているのがとてもおもしろい。
次回からその辺りのことをから徐々に書いていこうと思う。

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